英語で味わう古今和歌集 仮名序-12 紀貫之 Enjoying Kokin Waka Shu in English: Preface-12 Ki no Tsurayuki

英語で味わう古今和歌集 仮名序-12 紀貫之
Enjoying Kokin Waka Shu in English: Preface-12 Ki no Tsurayuki

 そのほかに、近き世にその名聞えたる人は、すなはち、僧正遍照(ソウジヤウヘンゼウ)は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女(ヲウナ)を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

 在原業平(アリハラノナリヒラ)は、その心余りて、詞(コトバ)たらず。しぼめる花の色なくて匂(ニホ)ひ残れるがごとし。

 文屋康秀(フンヤノヤスヒトデ)は、詞(コトバ)たくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人(アキヒト)のよき衣(キヌ)着たらむがごとし。

 宇治山の僧喜撰(キセン)は、詞かすかにして、始め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁(アカツキ)の雲にあへるがごとし。
よめる歌多く聞えねば、かれこれをかよはして、よく知らず。

 小野小町(ヲノノコマチ)は、古の衣通姫(ソトホリヒメ)の流(リウ)なり。あはれなるようにて、つよからず。いはば、よき女(ヲウナ)のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。

 大友黒主(オホトモノクラヌシ)は、そのさまいやし。いはば、薪負(タキギオ)へる山人の花の蔭(カゲ)に休めるがとごし。

 このほかの人々、その名聞ゆる、野辺に生(オ)ふる葛(カヅラ)の這(ハ)ひひろごり、林に繁(シゲ)き木(コ)の葉のごとく多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし。

 Besides, famous poets in recent years, include Sojo Henjo. His poems are nice in format but lack substance. For example, looking at a woman depicted in the picture, he deranges his mind.

 Arihara no Narihira is running short of proper words for his emotion, as if withering flowers losing colors leave behind a scent.

 Bunya no Yasuhide is good at words but not suited to the content as if merchants are wearing formal costume.

 Priest Kisen of Ujiyama is vague in words and beginning and ending are not clear. It’s as if while looking at autumn’s moon, clouds are beginning to hang over it at dawn. Since there are not many poems of his in public, I refrain from making further comment.

 Ono no Komachi is in the beautiful line of Soto Ori Hime of olden times. Her poems are heartily tasteful, but lack vigor. It’s like women of high status are often sickly. The lack of vigor must come from her being a woman.

 Otomo no Kuronushi’s are rough in appearance. In other words, it’s like woodcutters shouldering firewood rest in the shade of blossoms.

 There are many others who compose poems like vines spreading in the field and leaves growing in the forests. We know their names. However, they don’t know the essence of poems, just thinking arranging words in certain format constitutes poems.

(現代語訳)
 その他に、近い世にその名が聞こえた人は、すなわち、僧正遍照は歌の様式は整っていますが、(歌の)真が乏しいです。例えば、絵に描かれた女性を見て、いたずらに心を乱すごときであります。

 在原業平は、心余って、言葉が足りません。しぼんでいく花の色があせて匂が残ったごとしです。

 文屋康秀は、詞は巧みですが、それが内容に似あっていません。言わば、商人が良い衣装を着ているごとしです。

 宇治山の僧喜撰は、詞がぼんやりしており、始めと終わりが確かではありません。いはば、秋の月を見ているうちに、明け方の雲がかかるごとしです。
詠んだ歌が多く聞えておりませんので、あれこれと通じて、よく知ることができません。

 小野小町は、昔の(伝説上の美女)衣通姫(ソトオリヒメ)の系統です。しみじみと趣きがあるようですが、強さはありません。言わば、身分の高い女性が病弱なようなものです。強さがないのは女性の歌だからに違いありません。

 大友黒主は、歌の姿が粗末です。言ってみれば、薪を背負った木こりが花の蔭に休んでいるようなものです。

 この他の人々で、その名前が知られている人は、野辺に生えているつる草のように這って広がっている、林に繁る木の葉のように数は多いのです。しかし、詠みさえすれば歌となると思って、本来の歌の本質を知らないのでしょう。

By Kota Nakako

2024/11/09

にほんブログ村 本ブログ 詩集・歌集・句集へ   にほんブログ村 本ブログ 古典文学へ   にほんブログ村 本ブログへ